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プロフィール

harry

Author:harry
1951年8月生まれ。獅子座。
AB型。178センチ。70キロ
①.スポーツ&アウトドア
特にサッカーと山と釣り。
登山、ゴルフ、マラソン、カーレース、ウインドサーフィン、クルージング、乗馬などなど。何でもやりたがりでどれもそこそこはこなすが一流には遠い。

②食べる!
作ること、食べること、食べさせることが大好き!「人の生きがいの半分は食に在り」と思っている。阿蘇の山小屋ではピッツァを焼くためのナポリ窯も作った。特にラーメン、うどん、そば、パスタなど麺類には目がない。

③馬大好き!
競馬では100万馬券を何度か的中!過去通算では間違いなく損している?
人生も賭けだけどいざという時には強い。
馬好きが高じて地方競馬の馬主になったことも。
2010年ハヤノ牧場には10年来の夢だった馬が来た。

④時間があればしてること
ジョギング、草刈り、薪割り、伐採、山芋掘り、畑仕事、ログハウスのメンテナンス、木工、音楽を聴く、映画を観る、絵を描く、本を読む。そしてブログを書く。最近は阿蘇の山小屋に行く時間が減ってストレスたまり気味?

⑤好きな作家
もちろん開高健さん

⑥愛犬
ロッキー
アラスカンマラミュート♂
(1999年3月8日生まれ・45キロ)
ルーク
ラブラドルレトリバー♂
(2010年6月18日生まれ・24キロ)


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1950万7010円

12日土曜日。
朝から吹雪。
横なぐりの雪が降ってあっという間に北九州の街を白く覆った。
朝から大学の入試面接だった。
終わったあとまだ時間があったので隣の小倉競馬場に行く。
雪のため小倉競馬は3レースで中止。
京都と東京は開催しているので馬券を買う。
9Rから12Rまでの計8Rを買ったけどひとつも当たらない。
ノーヒット。
まったくかすりもしない。
こんな日もある。
そういえば小倉競馬場に毎週のように通っていた15年前頃は1Rから12Rまでひとつも当たらない時もあった。
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雪景色の競馬場。

13日日曜日。その小倉競馬場。
JRA史上最高の高額配当1950万7010円が飛び出した。
当たったのは二人。
「僕ではないか?」と何人も電話やメールをもらった。
逃げも隠れもしません。
残念ながら私ではありません。
その日は義兄が来ていて14時まで居たので競馬をやるのは悪いかなと遠慮してやりませんでした。

「8-3-13」の3連単。正しく1着2着3着の順に当てなければいけない。
僕はよく人気に関係なく語呂あわせで3-5-8-11-13とか3-4-7-11-12とかあるいは
2-4-6-8-12かの組み合わせを3連単ボックスで買うことがある。
ボックス馬券なら60通りになるがどれが1~3着に来ても当たりになる。
100万以上の馬券は競馬新聞の印を見て買っていては当たらない。
その日の出目(よく出現する数字)とか好きな数字とか語呂あわせとかでなければ人気薄の馬券は買えない。

3と5を足せば8、3と8で11、5と8で13。
8は僕のラッキーナンバー。
その日は1Rから3Rまで連続して3着以内に入っていた3が出目。
さらに二つ前の第2Rでは3-13が1着と3着。
この流れだとたぶん3-13が印象に残る。
ラッキーナンバー8を加えると3、5、8、11、13の目が浮かんでくる。
もし朝から競馬をチェックしていたら「8-3-13」は買えていたかもしれない。
後からなら何とでも言えるが当たる時はそんなものだ。

4月から5連単(1着~5着まで全てを当てる)が始まる。
人気薄が一着に来ればトンデモナイ数字になるかもしれない。
いつかこんな夢馬券に出会いたいものだ。


【小倉競馬の史上最高配当馬券】
大番狂わせの舞台となったのは4R3歳未勝利戦(芝1800メートル)で、9番人気の(8)ゲティスバーグ→15番人気(3)カリスマミッキー→6番人気(13)シルクフラッシュの順にゴール。3連単(8)(3)(13)の払戻金は1950万7010円(3360通り中3088番人気)だった。

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ビワハヤヒデ

本当の意味で競馬が、そして馬そのものが好きになったのはこの馬に出会ったからだと思う。

1992年。もう14年前のことになる。ライスシャワーやミホノブルボンが活躍していた年のことだ。いつものように競馬新聞を買って面白いレースはないかと1レースから順番に見ていたらビワハヤヒデという名前が目に飛び込んできた。

当時アスキーの名作ゲームソフト「ダービースタリオン」に嵌まっていた僕はゲーム上で所有する自分の牧場名を「ハヤノ牧場」と名づけていた。また馬名にはヒデノ***とかヒデミ***とか***ヒデハヤとか***ハヤヒデとか自分の名前にちなんだものを付けていて、この名前を見た瞬間「えっこれは僕の馬だ!」と思い入れてしまった。早速この子からの流し馬券を買った。ビワハヤヒデは順当にデビュー戦を勝ち上がりクラッシック路線に駒を進める。競馬新聞でハヤヒデが出走するレースを探し必ず馬券を買いまるで馬主のような気分で声援を送った。

父はシャルード、母はパシフィカス。あのナリタブライアンの兄。葦毛の大顔。その大きな顔は化粧をしたように真白でお世辞にもカッコイイとは言えない。

デイリー杯三歳ステークスでマル外のエルウェイウィンに負けたけどその後も2着をはずす事はなく、僕はハヤヒデの出るレースで負けた事はなかった。彼は若葉賞を勝ち、一回目のクラッシクレース「皐月賞」にチャレンジする。当然馬券はハヤヒデから買う。共同通信杯を勝ったウィニングチケットが一番人気だったが、ハヤヒデ、ナリタタイシンと人気を三分していた。直線でガレオンと競り合い、もがくハヤヒデを武豊が騎乗するタイシンがあっという間に急襲し差し切る。ハヤヒデは惜しくも2着だった。

そして「ダービー」。柴田政人が騎乗するウィニングチケットが一番人気でハヤヒデはまたも2番人気。先行するハヤヒデにとって、僕にとってこの日の東京競馬場の最後の直線はいつもの倍の長さに思えた。その年に引退が予定されていた柴田政人が悲願のダービー初勝利を飾り、岡部のハヤヒデはまたも無念の2着となった。

ハヤヒデは夏を順調に過ごしトライアルの京都新聞杯をあっさり勝ち上がって最後の一冠「菊花賞」に挑んだ。4コーナーで先頭に立ったハヤヒデはそのままぐいぐいと他馬を引き離し終わってみればレコードタイムの圧勝劇だった。2着には伏兵(自分は密かに狙っていた)ステージチャンプが突っ込んで3830円の馬券を取ったのは言うまでもない。溜飲を下げるというのこういうことをいうんだろう。

今年の菊花賞はセイウンスカイが逃げ切ってやはりレコードタイム(3分3秒だった?)で駆け抜けた。ただ2着には本命のスペシャルウィークが来たので馬券は取れなかった。ハヤヒデの時のような思い入れもないからきっと何年かすれば忘れてしまうだろう。
それはそれとして有馬記念、天皇賞春、宝塚記念、そしてあの悪夢の天皇賞秋とその後のハヤヒデは駒をすすめる。          

1993年12月。
有馬記念にハヤヒデは挑む。トウカイテイオーが一年ぶりの復活で紙上を賑わしていた。ジャパンカップを勝ったレガシーワールドやナイスネィチャなどの豪華な顔ぶれに混じってハヤヒデも大きな顔!をして轡を並べる。例によって好位置に付けて4コーナーを過ぎて先頭に躍り出るかと思ったその時、「まさか一年ぶりじゃ無理だよね」と多くの人が思っていたトウカイテイオーがするすると抜け出してくる。ハヤヒデも粘る。結局トウカイテイオーの執念にも似た走りの前にまたもハヤヒデは2着となった。でも4歳で2着は立派と身贔屓の評価で納得する。
ハヤヒデはこの2着で年度最優秀馬の栄冠に輝いた。

1994年秋。
順調に夏を過ごして更にパワーアップしたハヤヒデはウォーミングアップ代わりの毎日王冠をアッサリと勝って秋の天皇賞に向かった。断然の一番人気。距離的にどうかと言われていたがスピードのあるネーハイシーザー、セキテイリュウオーが自分の狙い目であった。競馬場に着くなりお金がなくならないうちにとハヤヒデを軸にした流し馬券を買う。
その日は調子良くてメインのレースの前に幾つかのレースで的中していた。増えたお金でメインレースの追加買いをする時に、たまたまハズシたレースがいずれも立て目を食らった(たとえば1-3、1-5と買って3-5を買ってない事を言う)ことを思い出しので、勢いで1番セキテイリュウオー、7番ビワハヤヒデ、10番ネーハイシーザーのボックス馬券1-7-10を追加買いする。

その時はまさかハヤヒデが3着以下になるなんて思いもしなかったんだが、競馬に絶対はないからとそんな買い方をしてみただけだった。
ネーハイシーザーが逃げる。4コーナーを回って直線になってもヒデが抜け出してこない。4、5番手から伸びない。どうした?行くんだ!必死にもがくが伸びない!ついにヒデが来ないまま、セキテイリュウオーが強烈な末足でネーハイシーザーに迫ったところがゴールだった。

ゴール板を過ぎたところで岡部がハヤヒデから飛び降りた!
どうした?故障か?
走っている時はそんなにおかしなところはないように見えたが、伸びなかったのは故障のせいだった。右前足剥離骨折!幸い軽症だったため、予後不良で薬殺という最悪の事態にならなかった。僕はハヤヒデが死なずに済んだのは名手岡部がいち早く気付き飛び降りてくれたからだと今でも信じている。

しかしこれがハヤヒデの最後のレースだった・・・。
翌週、僕はパリの日航ホテルに居た。NHKの衛星放送がハヤヒデの引退のニュースを告げていた。

1995年夏。
北海道日高の日西牧場にビワハヤヒデが余生を過ごしている事を聞いて訪ねて行った。牧柵に囲まれた広々とした一画を一人占めしてハヤヒデは悠々と草を喰んでいた。グレイの馬体は少し葦毛が増していて、レースに出なくなった競走馬の後ろ姿はなぜかやさしく物悲しく映る。やっと近くに寄って来た時に見せてくれたあのデカイ顔は紛れもなくあの大好きなハヤヒデだった。

彼の息子たちが今年もうデビューする。
ハヤヒデほどの熱い走りを見せてくれるのか。あるいはオグリの子達のようにいまひとつ伸びないまま終わるのか。どちらであっても僕はこの子たちを応援してやらなくてはいけないだろう。                            
                    ≪1998/11/10 Tue 14:27≫

オグリキャップ

あれは平成2年の宝塚記念だった。

新入社員の歓迎会で少し飲みすぎて酔いをさまそうと廊下に出たら若手リーダーのFを中心に何人かが競馬新聞を囲んでワイワイやっている。学生時代の競馬場での事件がトラウマとして残っていた僕は競馬をやるヤツにはろくなやつはいないと考えていた。

「おまえたち新入社員をほっといて何をやってるんだ!」と強く叱ったことに気まずくなって「なんだ明日の競馬か。何が来るんか。」とその場の雰囲気にあわせようと何気なく聞いた。「オグリキャップが出るんです。まず相手はオサイチジョージで固いと思います。」とFが真面目に答える。あの地方競馬の星、怪物「オグリキャップ」はすでに中央競馬でも大活躍をしていて競馬に興味を持たない僕も名前だけは耳にしていた。

笠松競馬場の苦い思い出が頭を過らなくもなかったが、わずか700万円で買われてきた馬が、数千万を超す高額馬を蹴散らす痛快もある。「じゃあそれを買ってきてくれ」と酔った勢いも手伝って冗談半分に財布の中からありったけのお金を出して渡そうとした。「それはちょっとヤバイですよ。もし外れたら大変です。」と言うのでその中から1万円札を一枚渡した。

オグリは2着だったが連に絡んで十数年ぶりに買ったその馬券は翌日6万円余りになった。無欲だったからか、勘が冴えていたのか、たまたまそのあとも当たり続けて一万円の元手は15万円余りになっていた。
7月、夏競馬が始まると言うので当たり馬券の換金も兼ねて小倉競馬場に行ってみることになった。

久方ぶりに訪れた競馬場はあのすさんだ男たちの賭博場ではなかった。若い母親が場内のプールで子供を遊ばせていた。恋人たちが100円馬券を買って勝ち負けにはしゃいでいる。博打ではなくゲーム感覚の遊び場という感じがした。そこは目を血走らせたあの男たちの居場所ではなかった。

それから毎週のように競馬場に通った。血筋と育った環境を考えればもともと賭け事は嫌いではなかった。今から思えば幼いころからセンスも磨かれていたはずだ。競馬必勝本を買いこみ、データの読み方やパドックの見方を研究し、金曜日の夜は競馬新聞と首っ引きで明日のレースの予想をした。競馬新聞に書かれた馬柱(過去の成績やデータが書かれた記録簿?)を読み、距離適性やスピード、馬の調子やそのレースの展開を考えながら勝つ馬、2着に来る馬を予想する。

その何時間かは推理小説を読む楽しさに似ている。そして翌日、推理した馬券をポケットに入れてゲートに向かう馬たちを待つワクワク気分。ゲートが開いた瞬間の胸の高まり。コンマ一秒もない一瞬のゴール前のスリル。そして推理した結果が見事に当たった時の快感、歓喜。
研究熱心が幸いして、比較的損をせずに続ける事ができた。むしろ本命の馬券よりも、配当が比較的高目の馬券を狙う買い方だったので、大きく儲けて帰る日も多かった。

オグリキャップはもがいていた。秋の天皇賞は岡部のヤエノムテキの前になすすべもなくバンブーメモリーにすら後塵を拝す事になる。ジャパンカップではベタールースンアップが先頭でゴール前を駆け抜け、オグリは姿さえも見えなかった。誰もがもうオグリキャップは終わったと感じていた。僕は競馬に出会った笠松競馬の星にこのまま終わってほしくなかった。それが事実としても信じたくなかった。

そしてあの有馬記念。最後のレースになると言う事で武豊が騎乗。あまり勝ちすぎるので普段は武豊の馬券はめったに買わない自分だったがこの日ばかりはオグリキャップがらみの馬券をしっかりと握っていた。
心なしか葦毛がくすんで見えるオグリが中団からぐいぐいという感じで抜け出してくる。行け!そのまま行け!自分のこころの中の叫びはいつかみんなの大きな声になってターフビジョンに響いていた。
武豊が珍しくガッツポーズをして、オグリの首のあたりをポンポンと叩いた。「オグリ!オグリ!」とカーテンコールのような歓声がオグリを迎える。B級のお涙頂戴物語なのになぜか胸がしめつけられてこみあげる涙が止まらない。

夕暮れがせまるウィニングサークルの真ん中でオグリの葦毛が誇らしげに光り輝いていた。

                   ≪1998/11/09 Mon 10:28≫

笠松競馬場

僕がはじめて競馬に出会ったのは大学一年生の時のことである。
その年の春休みに僕は、ずっと後にあのオグリキャップが走ることになる岐阜の笠松競馬場でガードマンのアルバイトをしていた。
そのころの競馬場は目を血走らせた男たちとヤクザたちが跋扈する賭博場だった。ノミ屋のための指定席券売り場の警備をしていた時、僕の同僚は「ひとり一枚です」と指定席券の複数買いを制止しただけでヤクザの何人かに取り囲まれて殴られた。制止する事も誰かを呼びに行く事もできず足がすくんだままただ黙って下を向いていた自分が今でも恥ずかしい。

投票が締め切られると束にされた現金は即座にジュラルミンの箱に詰め込まれる。血走った男たちが本馬場のほうに気を取られている隙に、僕の手首に手錠で繋がれたその箱を係員の誘導に従って輸送車まで運ぶ。たった2~3分のその時間が気の遠くなるほど長いものに感じられた。
ヤクザにぼこぼこにされた同僚も自分も、一週間もしないうちにアルバイトを辞めた。

木曽川の土手のすぐ横にあるこの競馬場に続く道路は馬糞にまみれていた。休憩の合間に覗いた厩舎には藁と馬糞のにおいの中でレースのない馬が悲しい目をして佇んでいた。競馬場の喧燥とは別の世界だった。
「そんな馬たちを鞭で叩いて、金を賭けて何が面白いんだ。」遠くを見つめる馬たちにつぶやくように話しかけた。
だから競馬は嫌いだった。

それから一年が過ぎて、友達に誘われるまま後楽園の場外馬券売り場に行った。「俺は買わないよ」と言うと友達は「付き合い悪いな。今日は競馬の祭典日本ダービーだぜ。せっかく来たんだから何か買えよ。」と言う彼に渋々付き合った。何かの語呂合わせだったのか何となく買ったのが5-5の500円馬券。忘れもしないヒカルイマイとロイヤルハーバー。笠松競馬場では見る事もなかったレースを、はじめて馬券を買った側の立場で観た。ゲートが開いて何がなんだかわからないうちにレースは終わり、5-5の馬券は2万何千円かのお金になった。それがはじめての馬券だった。

馬券には関係なかったけどアカネテンリュウって馬もいたよな。なんだか印象深い名前が頭の片隅に残っているが僕にどう関係あったのか、G1を勝ったのかどうかさえも記憶にはない。
 
                   ≪1998/09/05 Sat 22:19≫


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